コマミヤンの日記

人がやっているのを見て僕もやってみたいと、そう思い勢い任せで始めてみました。漫画とかアニメとか、そっち系のものが趣味ですけどそんなに詳しくはないです。基本的には自分が何かのタイミングで思ったこととかを書く日記になりそうです。仲良くしていただけたらとてもうれしいです。

初めてデレマスのライブに行って楽しかったなと言う話


 11/10のデレマス7thライブ名古屋公演の2日目を観に行った。これが僕にとって初のデレマスライブ。僕はこれまでライブイベントなど派手なイベント事にはあまり積極的には参加しないタイプのオタクで、デレマスのライブも思い立った時にチケットが受付中だったら応募する程度の熱量で過ごしてきた。そうしてこれまでお決まりの「チケットをご用意できませんでした」のメールを受け取り「まぁ出かける計画をたてずに済んだな」とさほど悔しくもない落選を何度か繰り返していたのだけれど、今回いよいよ本当にチケットが取れてしまう事態が訪れた。

 


 当選メールを受け取り、これでライブ観戦に向けて準備をしなくてはならなくなった。出勤日程の調整や交通手段に宿の手配、なによりにわかオタクが一人でノコノコと出向いていいイベントなのだろうかという考えがひたすらに気をもみ、チケット当選の喜びよりも不安の方が勝っていたと思う。

 

 さてこのぼっちオタクが怯えながらも当日を迎えるまでや、名古屋到着からライブ開演・開演中といろいろ語りたいことはあるが、一息に話をライブの後にまで飛ばそう。

 

 ものすごく楽しかった。

 

 実を言うと僕はここ数年の間にひどい鬱状態を経て何をするのも面倒臭さを感じ、気分を高揚させるということがなかなか難しくなっていた。だけどライブが終わった後の僕ときたらすっかりとデキ上がってしまって、周りの人たちと一緒になって恥ずかしげもなく「アイマス最高ー」と大声を上げていた。そしてライブ会場を出て周囲を見回し、自分が知らないうちになにか無作法を働きそれに憤った人に胸ぐらを掴まれる事もなさそうだと胸を撫で下ろすと、自分が今「感動」を覚えていることに涙が出そうなほどうれしくなってしまった。


 少し前に話題になった、川崎の通り魔事件に関しての爆笑問題太田光が発した言葉を思い出した。内容は、何かをきっかけ(太田さんの場合はピカソ)に急に感動が戻ってきて、そこからいろいろなものを好きなれて、そうするとそんな自分も捨てたもんじゃないぞと思えるようになる、とこんな話だったはずだ。ライブ後の僕はこの「急に感動が戻ってきた」に近い状態にあったのだと思う。自分が一切の感動を失っていたとは思わない。美味しいものを食べれば美味しいと感じ、面白い漫画を読めば面白いと感じていたはずだった。だけどそれは、頭の中だけで「これは自分がおいしいと感じるモノだ」「これは自分が楽しいと感じるモノだ」というような、どこか他人事のような分析だけが行われていたのだと、心は動いてはいなかったのだと、そんなことを今にして思う。

 

 疲れてはいたが宿までの足取りは軽かった。楽しいとか、嬉しいとか、悔しいとかで自分の心が揺り動いているのを感じるのは心地よかった。もちろんこれを機に鬱が綺麗さっぱり無くなりました、とはいかなくて、面倒臭さや気だるさは相変わらず脳味噌にべっとりとこびりついたままだけれど、活動的な気持ちを幾分か取り戻せたし、もう少し自分自身をどうにかしたいと、今では思える。「どうやら自分はまだ捨てたもんじゃないらしいぞ」。まずは久しぶりにブログでも更新してみるかと、そんなわけでこんな内容を投稿してみた次第。まぁライブから1週間経ってしまったのだけど。
 


 ともあれ、ありがとうアイドルマスターシンデレラガールズ、ありがとう名古屋だ。今後は積極的にチケット争いに参加し、是非とも次の大阪公演にも足を運びたいと思っている。ひとりぼっちで誰とも感動を分かち合えないというのも悲しかったし、名刺交換とやらにも手を出してみるか?うむ、少し時間は経ったけどまだまだ活動的な気持ちを保てている。

 

 

 ちなみに今更ですが担当は日野茜ちゃんです。だったらもっと情熱的に人生を送ってろって話なんですがね。ボンバーだ、ボンバー。

 
 

ゆく年ゆく年

 さて本当に久しぶりの更新となる。ゆく年くる年。アディオス2015。ウェルカム トゥ ディス クレイジタイ。

 

 あれそれ頭に思い浮かぶものはあるものの日々の生活に神経をすり潰され、何もしなくていい時間は何かをする意欲も湧かず。2015という年は不本意ながらも実に勤勉な日々を過ごす一方で、いつにも増して自主性や生産性を欠いた一年であったように思う。

 

 だからと言ってこんなアクセスログを見ても誰も訪れやしていないブログを更新することでどうだということでもない、だろう。なかろう。だども、今現在大晦日で紅白歌合戦を垂れ流し、缶チューハイでゴクゴクと喉を潤し脳細胞を死滅させながら、特に中身のない文章を掲載して今年を締めくくるのもいいかもしれんと思い、ここに駄文を掲載する次第。たいした量も中身もないのでクソ暇な人だけお付き合いくだされば幸いで。

 

 年末年始といえど、自分の勤める業界というものは日頃から休日だの祝日だのとは無関係の年中無休なものなので、大晦日の本日に至っても朝は普通に会社に出勤し、タイムカードを挿し、パソコンの画面と見つめ合う1日を過ごした。酒なぞ飲んではいるが、年が明けての1月1日も寝ぼけた頭を電車と共に揺らし働く喜びを噛み締める次第。

 今の仕事を始めるまではやはり大晦日にはオタクらしくコミックマーケットへ行き、寒空の中薄い本を漁り疲労で精魂尽き果てながら帰宅し、その年のミュージックシーンなぞわからんくせに、いやわからんこそ紅白歌合戦なんぞを垂れ流し蕎麦を啜るのを習慣としていた。

 僕の中ではある種の年を越す儀式のようになっていたものだから、コミケの三日目に参加できなくなったのはとても残念に思う。今年は欲しいものがそれほどなかったにもかかわらず、やはり物寂しい。初日は覗きに行ったのだけれど、やはり最終日が好きだ。

  年の暮れらしいこととして一攫千金を求め、宝くじではなく競輪にちょいと張ったところ結局は懐も寂しいこととなった。平原の絶好展開だったんだ・・・、なぜ伸びんかった・・・。年始にはなにか電化製品でも漁ろうかと毎年思うのだけれど、今回はよそうか。

 寂しいといえば年末年始はテレビの深夜帯になにか妙に大きい放送枠で特番がくんであったりというのが楽しみだったけれど、最近はそういったものが少ないのもそう。特に年が明けて行われる地上波深夜の麻雀放送。あれを見れなくなって何年だろう。あれをコタツでぬくぬくだらだら見ながら酒を煽り寝落ちするというのがとても楽しかったのだが。だらだら見れる深夜番組を求む。

  ただ、明け方までとは言わないが年が変わったその数分後に始まるさだまさしの番組は未だ僕を大晦日から正月へと導いてくれる。あれはいい番組だ。

 

 ぼそぼそと呟きを繋げるだけのブログ更新ではあるけれど、とりあえず今年の最後の日に更新をしたぞという事実を残そう。そして来年はもう少しなにか文章として頭の中のものを残せればいい。言うは易しで、来年はさらに仕事が忙しくなると上司から聞いているので、うーむ。

 

 さてそろそろ近所の寺から鐘の音が響いてくるだろう

 

弓の構えがどうとか

 久しぶりに更新します。それなりにあくせく働いて、起伏の乏しい生活を送っているとブログのネタも特になく、ものぐさなもんでこうなります。今回はちょろっとツイッターじゃ長くなりそうな「みんなとは違う考えを僕は持ってるんだよ」アピールがしたくなったのでいざ更新。

 

 艦隊これくしょんのアニメが始まった。恥ずかしながら僕はこの超話題コンテンツ艦これに関して、ツイッター上で出回っているような有名ネタくらいしか知識としてない。なんか大ブームなんだしアニメくらいは見ておこう、といった程度の熱量で見ている。まぁ今回は僕のアニメに関しての感想は置いておいて、ネットで話題になった「キャラクターの弓の構え方がなっていない」という指摘とそれに対する反応に関して感じたことを書く。

 自分の見る限りこの指摘は多くの人の失笑を買ったようで、こんなのはどうせ重箱の隅をつつきたがるアンチの戯言だとしてネット上ではネタとして扱われ、本当に構えとして不自然なものなのかが取り沙汰されているものがとても少ない。仮にこれが、本当に弓道経験者が確かに感じる強烈な違和感であったとしても、そんな普通の人が気付かない細かい部分にいちいち突っかかるもんじゃないよ、アニメだよ?といった風にやはり小馬鹿にされている風である。これが弓道アニメだったらもう少し違ったのだろうけれど。

 実際におかしいのか裏を取るのはめんどうで調べる気もないけれど、ここでは「弓の構えがおかしい」ということをある程度前提として意見を述べてみる。僕自身も弓道の所作なんて全く詳しくはないので弓を弾く動作になんの違和感も感じなかった。なのでこの弓の構えに関する指摘も、まぁ自分にとってはどうでもいいやとは思った。ただこんなにもネット上で盛大にこき下ろされている事が正直意外で、というのもネット上では有名な「銃の構え方がおかしい」と指摘された少女漫画があって、そちらは皆ホントだホントだとゲラゲラ笑っていたはずではなかっただろうか。これと同じように弓道のシーンや弓を使って戦うのならちゃんと調べろというのはそんなに馬鹿にされるものでもないように思うのだけれど。それに少し絵が崩れればやれ作画崩壊だのと騒ぎ立てる人たちはこんな部分に関してももっとヒステリックになってくれなきゃしっくりこない。

 この辺りの差というのは艦これの一大ムーブメントの中でファンが排他的になっているというよりも、単にオタク層にとって弓道というのがとてもマイナーな分野で発言力が無いことが大きいのだろうか。誰だって野球のシーンで棒立ちのスイングからホームランとか見せられたら強烈に違和感を持つと思う。そこまで極端なものじゃないにしても、彼らはそれと同じような感覚を持っているのだろう。彼らにとってそれは細かい事ではないのだ。それを踏まえたうえで少数派の細かい意見なんて聞くに値しないとなっているのであるならば、悲しいことだなと。

 

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冷や水ぶっかけ甲子園

 夏といえば甲子園。厳しい予選を潜り抜け見事夢の舞台に立った高校球児達。彼らのさらなる夢をかけた熱き闘いは全試合が全国中継され、青春のすべてを野球に注いだ若人達の汗と涙が見る人々の心を震わせるのである。

 であるからして、見る側としては感動を生まない高校球児なんて甲子園の舞台にふさわしくない不届きものであって、もっとテレビの出演者としての自覚を持った行動をとるべきであるという意見がある。もちろんそこまでダイレクトにタレントとして球児を扱う人は少ないだろうが、実際のところ試合をする当人達以外の多くにとってはショースポーツとして高校野球は存在するのだろう。

 

 高校野球では野球のルールとは別に高校球児らしいプレーか否かも判定され、否と判断されれば野球のルールがどうだろうがその行為は厳重注意となり、要するに禁止とされる、らしい。去年はファールを打って粘るという行為が高校球児のとるべきでない実に卑劣で姑息な振る舞いであると判断され、青春を注いで磨き上げたバッティング術を大会の途中から封印させられるという球児がいた。今年は点差が大きく離れているのに盗塁という奇襲、攪乱策によって全力で追加点を上げようとする姿勢や、超スローボールという人を食ったような球を投げるピッチャーなどが高校球児にあるまじきなんとやらだと物議を醸しているらしい。

 どこぞかの地方予選決勝では9回に8点差をひっくり返す大波乱が話題になった。ひっくり返された方が情けないという意見もあるだろうが、このような劇的な幕切れこそ高校野球の醍醐味である、という意見は強い。けれども点を取れるだけ取るという姿勢は好まれない。取る側には逆転が起こりうる範囲にとどめる、相手の気力を削がないことなどの細やかな演出力が求められているようだ。

ならば同時に追加オーダーとして、リードをしていると気が緩む、2,3点取られると頭が真っ白になる、等といった精神的に脆い人間を用意しておいてもらいたい。1点2点で揺らがないようなどっしりとした心構えの連中による点差の開いたゲームなんて途中から消化試合になってしまう。高校野球の醍醐味を握りつぶしてしまうような、大人びて成熟した高校球児なんて高校球児らしくないだろうと僕は思う。負けているときには決してあきらめないが、勝てそうだと適度に油断する精神力を育んでいってほしい。

 スローボールに関しては、どんなにか高度な技術を要求される投球術であろうが、もう見た目がふわっとしてるから駄目だ。もっと力んで汗をかく投球をしてくれないと。相手の裏をかくなんて爽やかさがないよ。きっとそのうち打者の手元で曲がる球なんてのも高校球児らしくないという意見でも出てくるのでないかしら。相手を手玉に取ろうなんてしない全球ストレートの全力投球が理想だ、うん。

 

ところで、勝手なことをあーだのこーだのと発言してしまったが高校球児らしからぬプレーというのは俗に言う暗黙のルールというものに反するものであり、なにも高校野球に限ったことでなく存在するものであるという話を目にした。野球フリークに言わせると、野球人全般が守るべき礼節のようなものであるらしく、なるほどそれは脈々と守られてきたものならば十分に重んじなければならないかもしれないが、はたして今回ケチをつけている人というのはこの暗黙のルールというものを皆知っていたのだろうか。

この手の話を聞くと、あるルールやしきたりを自分の感じた不快感を正義と肯定するのに都合がいいから引っ張ってきているだけの手合というのがまざまざと想像できてしまうのだが。暗黙とはいえルールであるということを大切に思っていて、それで苦言を呈するひとも沢山いるだろうけれど、声を荒げている人というのは普段は意識しないか聞いたこともないそのルールを憂さ晴らしにちょうどいいから振り回しているだけという印象が強い。この手の連中は自転車の交通ルールに関する話なんかによく沸いて出てくる。

 

 立ち居振る舞いは球児だけに求められるものでもないらしい。マネージャーとしてチームに貢献するために進学クラスを断念しただとかいう話は概ね美談として捉えられ、僕も「ええ話やないかぁ、おじさん泣けてきたでぇ」となったのだけれど、一部の見識ある方々からは非難の声が上がった。

 曰く、将来を棒に振るった。曰く、隷属を強いるブラック企業のよう。曰く、周りの人間が止めるべき問題。

 彼らは献身的な人間を憐憫の目で見る。マネージャーさんがマネージャー業を自ら望みそこに喜びを感じているのだとしても、それはなにか熱に浮かされて見せられている幻想であって、彼女の自由意思というのは既にその幻想によって作られたもので自由などとはとても呼べるものではなくなっており、直ちに目を覚ますべきであるというのだ。

 彼らにしてみれば実際に試合に出るわけでもない人間が喜びを分かち合うなんて馬鹿げた話であって、この経験が彼女の人生を豊かなものにする可能性なんてほとんど信じられないのだろうか。であるならば、ベンチに入ることのできなかった3年生などもアルプススタンドでエールなんて送らずに受験勉強にでも取り組んでいて然るべきであって、それをさせない、しようとも考えさせない体育会というのはなんとブラックな組織でしょう、そもそもそんな組織に加入する前に大成する可能性のないものに目を向けさせないようきちんと周りの人間が管理する体制をとらなくては、とでも言うのだろうか。THE・管理社会。SF的だ。しかしこの、部活や学校なんかよりもよほど高い次元から人の意識と行動を掌握しようとする考えはどんなにか彼らの言う「ブラック企業的」かと思うのは気のせいだろうか。

 まぁ、こういう知識人以外にも、単に女の子にいろいろお世話されてうらやまCという嫉妬に狂った人もいるのだろう、体育会というのはむさい男の集団であることが多いようだから。

「なにがおにぎりだよ!ど・う・せ、おにぎりだけじゃなくてぇ?おいなりさんもぉ?おにぎってもらってるんじゃないんですかぁ?今日のウィニングショットはフォークのにぎりでお願いしますってかい?おうおう、出るっ出るっマネージャーさんのおかげで出ちゃうぅ甲子園出るぅとか言いながらゲームセットってかんじじゃねぇんかい?」

 なんて言っている人も多いんだろうな。僕はそんなこと一切思っていないけど、とりあえずごめんなさい。

 

 感動の舞台をより感動的に視聴者に届けようとするマスコミにも白羽の矢が立つ。

 甲子園の土をかき集める姿をカメラに収めるというのはとても血の通った行為とは思えず、なんとマスコミの醜悪なことかという意見がツイッターを横切って行った。あの舞台の敗者がみじめでかわいそうだとは思わないけれど、敗者の姿を絵に収めるという行為に蔑みを感じるものなのだろうか。当人たちが甲子園の土をかき集める行為に恥を感じているなら(もしそうならしないと思うが)控えるべきかもしれないが、カメラを向けるのは「テレビを見ている人はどうか彼らを労ってください」というような意図があるくらいには思えるだろうに、それは明確なものではないからマスコミ=ゴミという偏見が勝るようだ。マスコミには偏見を加味した上で見る人の気分をよくさせる振る舞いが求められている。

 それ以外にも敗者の振る舞い方、勝者の振る舞い方などなど、甲子園一座の方々に求められるものは多い。部活の取り上げ方として野球ばっかり特別扱いされてるなぁなんて思っていたけど、それはそれで当人たちには迷惑な話でもあったのだろうなぁ。

 

 さて勝手に想像上の人物像を批判したりと妄言を吐く散らすおじさんことコマミヤンは夢に生きる高校生を全力で応援しています。がんばれ高校球児。あと甲子園に熱狂している僕の知人U君、無職の身で彼らの一生懸命な様をよく真っ直ぐ見れるな、よく心に傷を負わないな。母校が出場してるといってわざわざ現地まで応援に行ったようだけど、野球部でもない無職の高校OBに応援されても何の力にもならんと思うぞ。

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怖い話が怖い話

 ホントはなかった怖い話。これがホントのホラ話(ホラー話)ってなもんだい。と、冒頭からお後がよろしい感じにしてしまったけれど、今日はこの時期の風物詩であるホラー物と自分について語る。

 僕は怖いのが苦手。とても苦手。怪談話やホラー映画はもちろん、遊園地のお化け屋敷なんぞでも足を踏み入れてなるものかの心構えである。お化け屋敷に関しては昔ディズニーランドのシンデレラ城という絶叫アトラクションに登場する悪い魔女(シンデレラには悪い魔女などいないはずだが・・・)に心底恐怖し泣き叫んだというトラウマがあり、これは単純にビックリさせられるのが苦手という風で、やれ心霊現象だの超常現象だのという話とは変わってくるかもしらん、とにかく恐怖心を煽るお話が心底苦手で、我ながら何とも肝っ玉の小さい男なものだと思う。

 基本的に怪談話からは目をそむけている。子供の頃はどこかのマンガあたりから引っ張ってきたような「七不思議」や、毎年公開される「学校の怪談」なんていうキッズ向けの映画が周囲では流行っていたが、そんな恐怖体験で盛り上がる輪からは距離をおいていた。

そんな風に過ごしていてもどこかで怪談話にはぶち当たってしまうもので、たとえば地区の子供たちで行うキャンプなど、夜の時間に子供たちが集うイベントがあると、何故だか知らないが教師や保護者、もしくはボランティアのおばさんなんぞが「はーい集まってー」なんて言い出して、何の嫌がらせか怪談話をご満悦に披露してくれるものだった。

 みんなとカレー食べてテント張って、さてどうやって大人の目を盗んで夜更かしをしてやろうかなんて企みに心躍らせているというのに、何が楽しくて少女の命が食いつぶされるような話を豪華3本立てで披露されねばならんのか。そんなに僕の小便が見たいのか。「じゃあ、最後は少し明るいお話を」って、だったら最初からするんじゃない。そんなもので恐怖の上書きができるか。

 うむ、今書いて思ったけれど、これってどうせガキが調子に乗って夜更かしとかするだろうから怖い話聞かせて鼻っ柱をへし折ってやろうという汚い大人の狙いがあったのだろうか。眠れなくしてどうするとも思うけれど。

 ビジュアルやBGM、演出で容赦なく恐怖心を植え付けてくるホラー映画なんぞは僕の最も恐れるところで、ベタだけれども呪いのビデオでおなじみ「リング」がトラウマだ。これくらいの有名作品ともならないと近づきもしないので、他のものも見ていたとしたらほとんど確実にトラウマになっていたのだろうけれど、まぁとにかく呪いのビデオの恐ろしさったらない。

 ビデオを見たら七日後にテレビから貞子がやってくるなんていう設定だけでめまいがしてくるというのに、中学生のころにテレビで放映されたリングを少々怖いもの見たさで一からストーリーを追って見てしまった。後悔した。最後、助かったと思っていた男の家の電気が消えたところなんか全身から血の気が引いて足腰が立たなくなった。おかげで深夜アニメを撮りためていたビデオテープを再生するたびに緊張するハメになるわ、夜に学習塾から帰るときに電気のついていない家の中では今まさに貞子が・・・!なんて想像をして全力で自転車を漕ぐわ、誰もいないリビングには実は今貞子がいて特になにもしないでくつろいでいるとか、そういう想像をしてしまう呪いにかかってしまった。もし、今から見ようとしているこのビデオがいつの間にやら呪いのビデオとすげ替えられていたとして、僕の環境では呪いの回避方法であるダビングが出来ないぞと大慌てだったが、だれに死んでもらう算段だったのやら。

 ちなみにリング、2以降は見ていない。こわいのだ。所詮映画の中の出来事だ架空の話だとは言うけれど、呪い呪われの出来事がひょっとしたらこの世の中のどこかで現実として繰り広げられているかもしれないと僅かなりとも想像さえ出来てしまえば、ゲーム大好きマンガ大好きの夢見がちな精神の持ち主、空想を空想であるという理由で軽視することができない人間の意識はあっさりと作り物の恐怖に飲み込まれるものなのだ。

 

 さて、ここまで僕のノミの心臓っぷりを披露してきたけれど、僕が心霊ものがおっかなくて仕方がないのだという話をすると、少年時代の僕を知る人なんぞは皆意外だと言う。それは決して僕が何に対しても物怖じしない勇敢な漢であると思われていたわけでも、僕自身が生気のない幽鬼染みた面構えだったからでもない。意外であると口にした知人は決まってこのように続ける。

「だってお前んちの横、墓じゃん」

 そう、僕の家は墓場と言ういかにも「出そう」なスポットに隣接していたのだ。そしてなんとも罰当たりなことに、夜は墓場で運動会とまではいかないが、夕方墓場で鬼ごっこ、かくれんぼ、ジョギングwith近所のおじさん、等々様々な遊びの場として活用していたのだった。楽しいな、楽しいな。

 そんな墓場に馴染み深い僕が幽霊怖いだなんて言うと、確かに「どの口が・・・」となるのもわかる。ただ、僕にとって墓場と言うのはきちんと埋葬された死人が安眠している場所という印象があり、悪霊蔓延る心霊スポットなんぞとはむしろ対極の場所であるとすら思っている。

 安眠を妨害する罰当たりなことをしたら祟られるのではないかという考えはあった。なので墓場を荒らすようなことはしていなかったけれど、鬼ごっこなんかをやると墓石を挟んで相対したとき、「やい、そこを通り抜けてくるなよ。罰が当たるからな。来れるもんなら来てみろ」などと煽られ、そんなときは「ごめんなさい」と声に出しながら墓石を踏み越えたりしていたっけか。

 程よい幅の直線というのが自転車や一輪車の練習として丁度よかったので、入門コースとしても兄弟で代々活用なんかもしていた。ペダルを回せるようになったら次は直角の曲がり角というのもカーブの練習に活用し、墓場内を自由に走り回れるようになることが一人前であるという認識が我が家にはあった。しかし今にして思えば、夕刻に一輪車に乗った子供が甲高い笑い声を発しながら墓場を走り回るというのもややホラーでなかろうか。

 遊び場どころか、通学路ですらあったりも。僕の通う小学校は家から出て道路を一本わたるだけの場所にあったのだが、通学班の都合でわざわざ少し迂回をして班の集合場所に行かなくてはならなかった。その集合場所というのが墓場を挟んだ先の、その墓場を所有する寺の境内だった。毎朝墓場を横切って通学する僕の姿というのは学校の3階くらいから覗き見出来たのだそうな。

 あの墓場に関する思い出というのは掘り返せば際限なく出てきそうなので、この辺でぼちぼちお開きといこうか・・・墓地だけにね!!!!!!!

(会心の笑みとともに去りぬ)

 

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文章力に関して主観のみで語る男

 文章力という言葉がある。文章力の高い文章、彼は文章力がない。

 ライトノベルを好んで読んでいるとライトノベルと一般文芸とのレベルの違いに関する議論がよく目に留まり、その中ではこの文章力というパラメータが引き合いに出されることが多い。

 また、近年では僕がそうであるように、ブログやツイッターというツールによって個々人がカジュアルに文章を世間に公開している。そして、そのような文章で銭を稼いでいるわけでもない人に対しても文章力の有無というのは時たま取りざたされている模様。

 

 ところでこの文章力というパラメータとは具体的にはどのような力のことを言うものなのか、はて僕にはいまいち把握できていなかったりする。

 僕がこの文章力という単語を意識しだしたのはここ10年くらいの話で、それまで子供のころの読書感想文やその他作文、受験期の小論文といった学習の過程ではこの文章力という言葉には出会っていないような気がする。いや、僕は文系ではない上にろくすっぽ勉強もしない人間であったのが理由であって、恐らくはどこかで何度も耳にはしているのだろうけれど、明確な力の尺度として存在はしていなかったのではないだろうか。文章の構成力だとか語彙力だとか表現力だとか、そんな風にもう少し細かい尺度なら聞き覚えがある。

 文章に関係するものを寄せ集めて文章力という言葉でまとめているのだとしたら、随分と大雑把であいまいな括りではないか。どれだけすらすらと文章を生み出せるかのスピード(生産力?)なんかも含めるのであれば、出来上がった文章だけでは文章力を推し量ることが難しくなる。そうなると世間で交わされる文章力如何という会話はある程度理知的なニュアンスを醸しているけれど、女子力だとか人間力だとかの「しゃらくさい」物言いに近いものを感じないでもない。

 ネットのオタク界隈で言われている文章力というのはそれとは少し違う匂いを発していることがある。単純に力強い表現というか、仰々しく小難しい物言いの文章が好まれ、それが文章力としての評価につながっているケースを以前はよく見かけた。だからこの場合はさっき言った、様々な何某力を総合的に見ての文章力というのとはまた少し違うのかな、と。

 ライトノベルの読者層なんてのは精神的に思春期で背伸びしたがりな性質の人が多いからなのか、難しい言葉を使ったケレン味ある表現が好きなもの。僕もそういうのは好きではあるのだけれど、それがはて文章を綴る能力として高いの低いのという話であるかとなれば、それは違うように思う。あんまりそれが行き過ぎると、霧や柳を魔王だ魔王だと言っているような、常用している薬を切らして白昼夢でも見ているかのような、無駄に大仰で尊大な表現の鼻につく文章になる。

 

 恐らくはどこかに定義と言うのは明文されているのだろうけれど、使用している人間によって定義が違っているように見えて、どうにも輪郭が掴めない。文章に関する総合的な能力としてとらえている人もいれば、局地的な表現力などのようにとらえている人もいる。だが、文章力という単語自体の定義が曖昧であっても、その言葉を使っている人がどういう意味合いで使っているか、比喩が上手いとか情景が浮かぶだとか、といった細やかなところというのは話の流れで何となくわかるものだったりする。

 そういう意味では懐の深い言葉だ。具体的に文章がどうと説明はできないが、この文章力という箱に包んでやれば、大体のニュアンスで言葉のキャッチボールが可能になる。しかもちょっと知的。この便利な言葉をなんの照れもなく使いたい。

 だが、こういう使う人によって振れ幅が出てしまう状況というのは日本語を正しい意味で使うことを信条とする言葉の信奉者には許しがたいものになるのだろう。今回は触れずにこの内容を終えるとするが、この言葉の信奉者というものに関しても少々あーだこーだと言いたいこともあるので近いうちにそれでブログを更新しよう。

 ところで、いやぁこれは文章力が高いよ、などと紹介されたものが、僕にとってひどくのど越しの悪い文章であることはたまにある。僕の咀嚼が足りないというのもあるけれど、結局のところこういうのは力の尺度でなく好みの話になることも多いように思う。

 

 最後に麻婆豆腐の画像を載せておくので、よかったら眺めていってください。

 

 

 

 

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犯人はアニメ好き

 犯罪者がつかまりました。犯人の部屋にはなんとたくさんの美少女アニメのポスターが。

 こういう報道があるとヒステリックに「オタク趣味は犯罪と関係ないだろ!」と声高に叫ぶ人が現れる。ロリコン趣味どうこうの話題だと、真のオタクたるもの決して現実のなにやらに手を出さずにどうたらこうたらと高説を垂れるものも現れ、そうだそうだとお仲間さんたちから拍手喝采。

  ある意味では罪を憎んで人を憎まずな分析なのかも知らん、だが僕としても偏見にあふれた報道というのは勘弁してくださいなと思う。ただこの勘弁してくださいというのは、結果的に漫画やらアニメの規制につながることがおっかないからであって、オタク=犯罪者予備軍という図式がそこまで的外れなものであるとは実のところそんなに思っていなかったりする。

 この手の報道の苦手な部分というのは犯罪者がオタク趣味であった時にだけ取り立てて趣味嗜好に言及するからであって、例えば部屋に野球の選手のポスターが多数張られているとかだと報道のネタにはしないところ。痛ましい事件が発生したのなら、なぜこんなことが起きてしまったのかを知ることは大事だ。それを起こした犯罪者の人となりを調べるというのは至極当然のように思う。趣味嗜好がその人の人となり、人格形成には大いに影響するというのは僕の勝手な偏見なのだろうか、とくにソースはないが当たり前のように感じるのだが。オタク趣味は犯罪に結びつくものじゃないと叫ぶ人は、なにかの作品に感銘を受けたりだとか、そういうことは今までなかったのだろうか。

 僕は昔から特に意識するでもなく漫画読んでアニメ見てゲームやってと、オタク的に生きてきた。アニメの続きを見ることを一週間のモチベーションにしていたり、漫画を読んで笑ったり泣いたり、多感な時期の多くの時間をオタク趣味に費やしてきた。それらの作品というのは間違いなく今僕の血肉となっており、人格形成に一枚も二枚もかんでいる。

 オタク文化に触れてきたことは僕にとって幸か不幸か。いや、幸か不幸かという問いの答えはもう成川姫さんに出会えたことで100%幸が確定しているのだけれど、それは一旦置いて、僕は自分の人格、性根がひどくねじくれている自覚がある。オタク趣味を持っていなかったら間違いなく今とは違ったコマミヤンが街を闊歩していただろうというということをほとんど確信している。が、そのコマミヤンと言うのが善人であるか悪人であるかまでは想像はつかない。オタク文化でない別の何かに影響を受けたコマミヤン君は、高尚な志で日本を変えたいなどと思い行動していたかもしれないし、ひょっとしたら強姦魔にでもなっていたかもしれない。 

 だからこう、犯人はアニメ大好き人間でしたよ!という報道自体は問題でなく、やるならもっと徹底して、犯罪心理学だとかの研究までしっかり行った上でやっておくれよ。そして他の事件でも犯人はサッカーファンで○○選手のポスターで部屋は埋め尽くされていました!とか、そんな報道もしてくれたまえよと。面白おかしく犯人の異常性を紹介するのでなくて、次にまたこのようなことが起きてしまわないように、起きてしまったことのきっかけを探るのならなんにも文句はないよって。まぁ結局ケースバイケースだろうけど。

 

 ロリコン犯罪者の部屋にロリータチックなポスターやらがあるというのも当たり前のことで、そういうのがすきだからそういう誘拐だとかに踏み入ってるんだから。まぁ、身代金が目当てとかでない場合だけれど。趣味と性癖の因果関係もはっきりしない。とくにアニメなどにも触れずに成長していく過程で自然にロリコンになって、その欲求をある程度オタク趣味で満たしていたのか、ふとした瞬間になにか女児的なアニメのキャラにでも心奪われてロリコンに目覚めたか。前者なら創作物がむしろ抑止力になっている面もあるかもしれないが、もし後者ならこれはアニメがなければ彼はロリコンを発症しこじらせることもなく、誘拐事件もなかったのではないか。だとするならばアニメの影響は・・・とはなる。

 アニメ・漫画(特に人格形成期に触れる作品)が後の人生を大きく左右するなんて昔からよくあることで、わかりやすいところでキャプテン翼に憧れたことからプロのサッカー選手にまでなった人、スラムダンクバスケットボール部への入部者が増えたなんてのものがあったじゃないか。ほかにも漫画の○○の生き方に憧れてだとか、つらいときにはあの名台詞を頭に浮かべて自分を鼓舞したり。そういう良い影響のエピソードとなれば多くの人が「そうだろそうだろ。オタク文化すばらしいものだろ」とご満悦に首をコクコクと頷かせる。なら当然、逆にマイナスの、負の影響を人に与えてしまうという可能性も否定は・・・「なにを言うんですか!偏見でものを語らないでください!」と、ノイローゼを起こす人も多くいる。

 良い影響として挙げた例は本人が影響を受けたことを自覚しているものだったけれど、これは勝手な予想かもしれないが無意識の領域にまで染み入っているものもあってしかるべきだろう。負の影響もまたしかりで、知らぬうちに種を植え付けられている人もたくさんいるだろう。そいつの芽吹き方次第で犯罪者の出来上がり。僕はフィクションの持つエネルギーというのを半ば信仰的に崇拝しており、時に人を狂わせることもあるだろうなと思っている。ありていに言えば毒にも薬にもなるというやつだ。

  僕が嫌なのはさっきも言ったように「じゃあ規制しましょう。するべきです。」の言葉だ。「サッカーで大けがをしました。サッカーを規制しましょう」とはならない。酒やたばこだって年齢制限こそかけているけど何歳だろうが体には毒だ。じゃあなくしましょうとはならない。税金とりましょうにはなっているけど。どんなに印象こそ悪くてもかまわん、酒やたばこの様に必要悪とどでも捉えてくれないだろうか。オタク文化が美しく、高尚なものである必要なんてから、放っておいてくださいな。ついでだけれど、僕の世代が昔遊んだ公園の遊具なんて「けがをした子供が出ました。危険です。なくしましょう。」の言葉で次々に姿を消している。とても悲しい。

 

  それと今回もう一つ、犯罪者予備軍という言葉に関して思うところ。

 オタク=犯罪者予備軍という図式はやめて!と、健全で善良なオタクの悲痛な叫びがツイッター上を飛び交っていた。見識ある知識人による「私はオタク趣味ではないが、実に短絡的な思考の図式である」というような言葉も見かけた。

 彼らの言葉はある程度正しいのだろう。オタク=犯罪者予備軍の図式はそう単純には成り立たなそうだ。でも、オタク趣味はこの際関係なくして、本当にみんなは犯罪者予備軍でないの?

 犯罪者予備軍というのは犯罪者じゃない。だから、全然善良な人間であっても予備軍であって矛盾はない。そういう意味で僕は大抵の人は犯罪者予備軍であるとも思える。

 この手の話で以前読んだ色川武大氏のエッセイ集、「いずれ我が身も」を思い出した。色川武大というより、もう一つの顔である阿佐田哲也と言った方が通りはいいだろうか。表題になっている「いずれ我が身も」の中で、阿佐田氏は「犯罪を犯したりして、窮地に陥っている人間を、我が事に感じる」と述べている。そして「いつか自分も・・・」といった考えが常に頭をよぎるのだそうだ。

激動の時代を生きてきた世代の人だし、音に聞くギャンブラーである氏ならば少々法は犯しているだろうとは思うけれど、それとは関係なく「幼いころからずっと」そうなのだという。

 

「それでは、いつか必ず、背広で顔をかくしながら警察へひきたてられるような破目におちいるとして、自分はどんなことでそうなるだろうか。それがさっぱり見当がつかない。見当がつかないけれど、だからといって、その実感が遠のくわけではない。」

 

 氏は殺人などはひどく嫌悪感を催すが、大狼狽の末うっかりやってしまいそうな気もするとも言っている。

 氏は自らを臆病と評していた。僕なんぞもひどく臆病な性質なもので、いつかなにかの拍子でとんでもないことをやらかしてしまうんじゃないかと日ごろから怯えている。例えば僕は車の運転免許こそ持っているが、運転技術は乏しい。駐車場では基本的に両隣の空いたスペースに前向き駐車だ。運転は週に一度くらい隣町まで走るくらいなのだけど、運転技術が乏しいと言うことはそれだけ普通の人より事故を起こしやすい人間と言うことだ。人を轢き殺しやすい人間と言うことだ。これはどうだろうか、犯罪者予備軍の資格ではないだろうか。ひょっとしたら既に気づかない内に小さな子供くらいなら轢き殺しているかもしれない・・・までは考えすぎか。

 それにある日突然自分の知らないところで自分が犯罪者として認定されることになるかもしれない。愛情を持って飼っていたカメがいつの間にかその地区の条例だかで、飼うためには手続きが必要な存在になっていて、それを知らなかった芸人さんは犯罪とまではいかなくても違反を犯したと風当り。法律に対して詳しくもないので、僕も気が付かない内に犯罪に手を染めている可能性、または今後犯罪とされるような行為をしている「かも」しれない。「かも」しれないということは、そう犯罪者予備軍だ。

 少々自分の肥大した被害妄想を垂れ流してしまったが、やっぱり僕は堂々と大手を振って生きている人間をみると落ち着かなくなる。それがどんなにか正しく立派な生き方だとしても。

 あ、「いずれ我が身も」は面白いのでおすすめ。

 

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